[550]玉鏡|水《みづ》も|漏《も》らさぬ|経綸《けいりん》
 |大望《たいまう》、|大望《たいまう》と|御神諭《ごしんゆ》にある|艮《うしとら》の|金神様《こんじんさま》、|三千年《さんぜんねん》あまりての|御経綸《ごけいりん》の|幕《まく》も|切《き》つて|落《おと》さるる|時機《じき》は|次第《しだい》に|近《ちか》づきつつあるのであるが、この|大神業《だいしんげふ》は|人間《にんげん》の|想像《さうざう》の|範囲《はんゐ》を|脱《だつ》した|目覚《めざ》ましいものだと|考《かんが》へらるる。「|此《この》|事《こと》を|知《し》りたものが|世界《せかい》にたつた|一人《ひとり》ある。|知《し》らすと|出口《でぐち》|直《なほ》でもあまりの|驚《おどろ》きと|嬉《うれ》しさとに【つい】|口外《こうぐわい》するによつて|知《し》らせてない」と|申《まを》されて|居《ゐ》る……。 |王仁《わたし》は|嘗《かつ》て|僅《わづ》か|金《きん》|五十銭《ごじつせん》を|以《もつ》て|金竜殿《きんりうでん》|建築《けんちく》に|着手《ちやくしゆ》したのであるが、|周山《しうざん》の|山奥《やまおく》でふと|得《え》たヒントは|王仁《わたし》をしてミロク|殿《でん》、|黄金閣《わうごんかく》と、|次《つぎ》へ|次《つぎ》への|建築《けんちく》を|成就《じやうじゆ》さす|動機《どうき》となつた。|王仁《わたし》が|山《やま》の|辺《へ》に|立《た》つて|一服《いつぷく》して|居《ゐ》ると、|樵男《きこり》|達《たち》が|杉《すぎ》の|丸太《まるた》を|伐《き》り|出《だ》して|筏《いかだ》とすべく|下《した》へ|下《した》へと|流《なが》して|居《ゐ》る。|流《なが》すといつてもチヨロチヨロとした|細《ほそ》い|渓流《けいりう》で、|太《ふと》い|箸《はし》を|流《なが》すにやつと|位《くらゐ》の|水量《すゐりやう》である。どうして|太《ふと》い|丸木《まるき》を|流《なが》す|力《ちから》などあるもので|無《な》い。そこで|見《み》て|居《ゐ》ると、|樵男《きこり》|達《たち》は|其《その》|渓流《けいりう》に|一《ひと》つの|堰《せき》を|造《つく》つた。だんだんと|水《みづ》が|溜《たま》つて|杉丸太《すぎまるた》を|泛《うか》べるによい|量《りやう》となると、やがて|材木《ざいもく》を|転《ころ》がし|込《こ》む。そして|一度《いちど》に|水《みづ》を|切《き》つて|落《おと》すと、|迸《ほとばし》る|水勢《すゐせい》によつて|丸太《まるた》は|勢《いきほひ》よく|流《なが》れ|出《だ》す。かくて|一本《いつぽん》|二本《にほん》と|流《なが》し、|可《か》なりの|数《すう》に|達《たつ》した|時《とき》、|又《また》|第二《だいに》の|堰《せき》を|切《き》つて|落《おと》す。かくの|如《ごと》きものを|度《たび》|重《かさ》ねて|遂《つひ》に|本流《ほんりう》にと|流《なが》し|出《だ》し、そこで|筏《いかだ》に|組《く》んで|悠々《いういう》たる|大河《おほかは》へと|運《はこ》び|出《だ》す。|箸《はし》を|流《なが》すにも|足《た》らぬチヨロチヨロ|流《なが》れも、【|溜《た》めて】|置《お》いて【|切《き》つて|落《おと》す】|時《とき》は|優《いう》に|大《おほ》きな|材木《ざいもく》を|流《なが》し|出《だ》す|力《ちから》となる。これだ、|王仁《わたし》はかうした|事《こと》に|教《をし》へられて、|彼《か》の|可《か》なり|大《おほ》きな|建造《けんざう》も|亦《また》|他《た》の|多《おほ》くの|仕事《しごと》も|易々《やすやす》とやつて|来《き》た。 だがさうした|仕事《しごと》は|艮《うしとら》の|金神《こんじん》|国常立尊《くにとこたちのみこと》|様《さま》の|御経綸《ごけいりん》に|比較《ひかく》すると、|実《じつ》に|千万牛《せんまんぎう》の|一毛《いちまう》にも|値《あたひ》せぬ|事《こと》である。【|一度《いちど》あつて|二度《にど》|無《な》い|仕組《しぐみ》】と|度々《たびたび》|神諭《しんゆ》に|出《で》て|居《ゐ》るが、|例《たと》へば|三千年《さんぜんねん》かかつて|溜《た》めた|大《おほ》きな|湖水《こすゐ》のやうなもので、いよいよ|切《き》つて|落《おと》さるると|云《い》ふ|事《こと》になると、|其《その》|勢《いきほひ》の|猛烈《まうれつ》さは|想像《さうざう》の|外《ほか》にあるでは|無《な》いか。しかも|一度《いちど》|切《き》つて|落《おと》されたら|最後《さいご》、|溜《た》めるのに|又《また》|三千年《さんぜんねん》かからねばならぬ|訳《わけ》である。だから|一度《いちど》あつて|二度《にど》|無《な》い|仕組《しぐみ》と|申《まを》さるるので、この|水《みづ》|溜《たまり》たるや、|一寸《ちよつと》も|漏《も》らされぬ|仕組《しぐみ》、|即《すなは》ち【|水《みづ》も|漏《も》らさぬ|仕組《しぐみ》】なのである。 |三千年《さんぜんねん》と|云《い》うても|実数《じつすう》の|三千年《さんぜんねん》では|無《な》い、|何十万年《なんじふまんねん》といふ|遠《とほ》き|神代《かみよ》の|昔《むかし》からの|経綸《しぐみ》であるといふ|事《こと》は、|度々《たびたび》|神諭《しんゆ》や|霊界《れいかい》|物語《ものがたり》によつて|示《しめ》されて|居《ゐ》る|通《とほ》りである。|大本《おほもと》の|神業《しんげふ》は|日《ひ》に|月《つき》に|進展《しんてん》して、|今《いま》や|全世界《ぜんせかい》に|其《その》|福音《ふくいん》が|宣《の》べ|伝《つた》へられつつあつて、|其《その》|偉大《ゐだい》なる|仕事《しごと》は|世人《せじん》の|注目《ちうもく》の|焦点《せうてん》となつて|居《ゐ》る。だが、それも|御経綸《おしぐみ》のほんの|一部《いちぶ》にしか|過《す》ぎないので、|此処《ここ》に|水溜《みづたまり》があると|云《い》ふ|事《こと》を|知《し》らす|為《た》めのほんの|漏《も》らし|水《みづ》である。 |神様《かみさま》の|御仕事《おしごと》の|広大無辺《くわうだいむへん》なる|事《こと》は|人間《にんげん》に|分《わか》るものでは|無《な》いのであるから、|彼是《かれこれ》|理屈《りくつ》を|云《い》はずに、|神様《かみさま》に|従《したが》つて|信仰《しんかう》を|励《はげ》むが|一等《いつとう》である。 |太平洋《たいへいやう》の|中央《ちうおう》には|深《ふか》い|溝《みぞ》が|穿《うが》たれて|居《ゐ》て|大《おほ》きな|烏賊《いか》が|住《す》んで|居《ゐ》るが、|其《その》|烏賊《いか》の|大《おほ》きさは|直径《ちよくけい》が|三里《さんり》もあるのである。|足《あし》の|長《なが》さは|一里《いちり》にあまり、|時々《ときどき》|水面《すゐめん》に|浮《うか》び|出《で》て|大《だい》なる|漁船《ぎよせん》などを|足《あし》でからんでグツと|引《ひ》き|込《こ》んで|仕舞《しま》ひ、|悠々《いういう》|海底《かいてい》に|沈《しづ》んで|御馳走《ごちそう》にありつくのである。|海竜《かいりう》が|現《あら》はれたなどと|云《い》ふのは、|実《じつ》はこの|烏賊《いか》の|足《あし》なのである。かういふ|事《こと》を|聞《き》いても|世人《せじん》は|中々《なかなか》|信用《しんよう》すまいが、|事実《じじつ》である。|古事記《こじき》の|八岐大蛇《やまたをろち》の|項《かう》を|読《よ》んで|見《み》ると 「|其《その》|眼《め》は|酸漿《ほほづき》の|如《ごと》くに|紅《あか》く、|身《み》|一《ひと》つにして|頭《あたま》と|尾《を》は|八《やつ》つに|岐《わか》れ、|身《み》には【|苔《こけ》】、【|檜《ひのき》】、【|杉《すぎ》】の|木《き》など|生茂《おひしげ》り、|長《なが》さ|谿八谷《たにやたに》、|山《やま》の|尾八尾《をやを》に|亘《わた》り、|其《その》|腹《はら》は|悉《ことごと》くに|常《つね》に|血《ち》|爛《ただ》れたり|云々《うんぬん》」とあるが、|背《せ》に|木《き》の|生《は》えた|動物《どうぶつ》なんか|少《すくな》くないので、|大地《だいち》は|生《い》き|物《もの》であると|昔《むかし》から|云《い》ふが、|大《おほ》きな|陸地《りくち》だと|思《おも》うて|其《その》|上《うへ》に|生《うま》れ、|其《その》|上《うへ》に|住《す》み、|其《その》|上《うへ》を|耕《たがや》し、|而《しか》して|其《その》|上《うへ》に|墳墓《ふんぼ》を|築《きづ》いて|居《ゐ》ると、|実《じつ》は|一《ひと》つの|大《おほ》きな|動物《どうぶつ》の|背《せな》の|上《うへ》であつたと|云《い》ふ、お|伽噺《とぎばなし》のやうな|事《こと》が|事実《じじつ》となつて|現《あら》はれて|来《こ》ないとも|限《かぎ》らない。いや|実際《じつさい》さういふ|動物《どうぶつ》が|何千年《なんぜんねん》もねむつたやうにじつとして|居《ゐ》て、|一《ひと》つの|大《おほ》きな|島《しま》だと|思《おも》はれて|居《ゐ》る|動物《どうぶつ》が|居《を》るのである。|人間《にんげん》の|頭《あたま》にわいた|虱《しらみ》は|其処《そこ》を|安住《あんぢゆう》の|地《ち》としてそこで|生《い》き、|子《こ》を|生《う》み、|子孫《しそん》|永久《ゑいきう》の|繁殖《はんしよく》を|願《ねが》うて|居《ゐ》る。それが|人間《にんげん》と|云《い》ふ|一動物《いちどうぶつ》の|肉体《にくたい》の|一部分《いちぶぶん》であると|考《かんが》へないと|同《おな》じ|事《こと》である。かういふ|大《おほ》きな|動物《どうぶつ》が|動《うご》き|出《だ》したら、それこそ|大変《たいへん》である。|世《よ》の|切《き》り|替《か》への|時《とき》には、どういふ|事《こと》が|起《おこ》つて|来《く》るかも|分《わか》らないのである。<昭7/8>