『霊界物語』第一一巻

第一七章 大気津姫の段(三)〔四八四〕
 『故殺さえたまへる神の身に生れる物は、頭に蚕生り、二つの目に稲種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰に麦生り、尻に大豆生りき。故是に、神産巣日御祖命茲を取らしめて、種と成し賜ひき』 『殺さえたまへる』と云ふ事は、大神の御法則に違反せる、汚穢なる衣食住の方法を根本的に撤廃せられたと云ふ意義であります。 『神の身に生れる物は頭に蚕生り』と云ふ事は、頭は総て国民の上に立つ治者の謂である。蚕は言霊学上、 カは、蒙せ、覆ふ活用であつて衣服を意味する、また光輝き、晴れ明けく、気体透明の言義である。 イは身に従ひ成る也、身の足して動かす也。これも衣服の活用である。 コは天津誠の脳髄であり、子の活用である。故に万民の上に立つべき役員は、第一に蚕の如くその身を空しうし、犠牲となつて国家のために尽さねばならぬ。 天理人道を明かにし、神智神識を感受し、以て上は一天万乗の大君に純忠の至誠を捧げ、下は人民を愛撫し、以て天津誠の実行者たるの覚悟を持ち、政治は完全無欠、錦繍綾羅の神機を織出すてふ、天下経綸の大道に奉仕するに至る瑞祥の世態を称して、『頭に蚕生り』と謂ふのであります。 『二つの目に稲種生り』と云ふ事は、目は正中を司どるものである。世界の一切を見極め、善悪美醜を判明する神機である。二つの目とは左右両眼の意義で、左は上を代表し、右は下を代表する目である。万有一切皆この目の無いものはない。しかるに上流社会は上流のみの事を知り、下流社会は下流のみの事より見ないとすれば、いはゆる片目である。現代は大抵皆片目の政治家や教育家ばかりであつて、二つの目の活用が足りないので、天下は益々無明、暗黒、常暗となつて来るのである。また顕幽両界を達観し得る人は、いはゆる二つの目が照るのであります。 稲種の イは成就る言霊で、大金剛力であり、基である。 ナは万物を兼ね統る言霊にして、よく行届く事である。 イナはまたイネと云ひ、五穀の主であり、眼である。イネの霊返しは餌となる、また米の返しはケとなる。大気津姫の気である。またよねとも云ふ。よねの返しもまた餌であり、糧の返しはケとなる。人の眼は夜分に寝るを以て夜寝(米)と云ひ、寝るを以て、寝(稲)ると云ふ。人の眼に似て形小なるが故に、小目(米)と云ふのも、言霊学上面白き解釈である。 凡て穀食をなす時は、心血自然に清まりて、明けく、敏く、顕幽を達観し、上下を洞察し、以て天下の趨勢を知悉し得るのである。故に万民の頭に立つべき治者は、心血を清め、神智を備へて、天下に臨まねばならぬのである。この原理天則が、頭に立つ人々に判つて来て、汚穢の食を廃し皇国固有の正食に改め、以て善政良治を布くに致る事を、『二つの目に稲種生り』と謂ふのであります。 また宗教家なれば、第一に顕幽一本の真理を達観して、生死往来の神機を知悉し、万民を教化するに致りたるを『二つの目に稲種生り』と謂ふのであります。顕幽一致、上下合一、陰陽和合、君民和平、内外親睦、神人合一の境地に入れる真相を称して、また『二つの目に稲種生り』と謂ふ事が出来るのであります。 『二つの耳に粟生り』と云ふ事は、二つは前に述べた通り、左右の意義であり、左は上流、右は下流社会なる事は勿論である。耳の言霊の約りはミである。ミは農工商の三種であり、実業であり、形体具足の言義であり、身体である。要するに、一切の生産機関を総称して耳と云ふのである。故に左は資本家や、大地主を意味し、右の耳は労働者や、小作人を意味するのである。また耳は一方よりその活用を調ぶる時はキクと曰ふ事が主眼である。手が利く、耳が利く、目が利く、鼻が利く、口を利く、腹が利く、舌で酒を利く、腰が利く、これを八ツ耳と曰ふのである。また霊的方面においても同一に、神眼、神耳、天言等やはり八ツ耳である。かくの如く霊体共に完全無欠なる、幽顕十六耳の意義を取りて十六菊の御紋章を制定されたのは最も深遠なる御慮の御在します所である。神八井耳命、彦八井耳命、忍穂耳命、または聖徳太子を八ツ耳命と申すなぞは、みな前述の意義から、名付けられたものであります。 『粟生り』の アの言霊は大物主であります、地であり、顕体であり、大本である。 ハの言霊は、延び開く也、花実也、数多き也の活用である。 要するに『粟生りき』と云ふ意義は、物質、霊界共に円満に発達し、国利民福を招来し、鼓腹撃壤の聖代の、出現せし事であります。御神諭に、『今の人民は盲と聾ばかりであるから、何程結構な誠をして、眼の前に突出してやりても一つも見えず、一寸先は真の暗であるぞよ。神は世界を良く致して、上下揃へて人民を歓ばして安楽な神世に致して、花を咲かし、実を結ばして、松の世、五六七の神世に立直して与らうと思うて、明治二十五年から、色々と申して、呼ばはりて聞かしても、耳が蛸に成りてをるから、狂婆が何を吐すと申して、我身の足下に、火が燃えて来て居りても、少つとも耳に入れぬが、見て居じやれよ、今に盲が目が明き、聾が耳が聞えるやうに成りて来るが、さうなりてから、俄に周章て神の申す事を聞く気に成りても、モウ間に合ぬぞよ。聞くなら今の中に聞いて置かぬと、後の後悔間に合はぬぞよ、眼も鼻も開かぬ如うな、惨い事が今に出て来るが、神の申す誠の警告を聴く人民は、世界にないぞよ、困つたものであるなれど、これを説いて聞かして、耳へ入れさして置かねば、神の役が済まぬから、嫌になる所まで、クドウ気を付けるから耳の穴をよく掃除致しておくが良いぞよ』云々とあるのは、耳に粟を生り出でしめむとの、神様の深き思召しであります。 『鼻に小豆生り』と云ふ事は華美なる衣服を改め、実務に適する制服を改定されると云ふ事である。大臣は大臣の服装、小臣は小臣、神職は神職、僧侶は僧侶、軍人は軍人、農工商は農工商の制服を定め、主人は主人、僕婢は僕婢の制服を一定し、一見してその官吏たり、宗教家たり、農夫たり、主人たり僕婢たり、労働者たる事の、弁別し易き服装を制定さるる事を『鼻に小豆生り』と曰ふのであります。現代の如く服制に厳格なる定規なく、神職や僧侶なぞが洋服を着用したり、僕婢が紋附羽織を着流し、絹の足袋を穿ち大道を憚らず濶歩するが如きは、実に不真面目の至りにして、亡国の因となるのである。アヅキのアは光り輝く事で、照妙、和妙なぞの、高貴なる織物であります。アは顕誉の地位に在る真人である。故に大臣とか、神官神職とかの、着用すべき衣服である、その他の臣民の着用すべきものでないのだ。絹物は着ぬもの也との滑稽語は、実際の戒めとして服膺すべき言葉である。アヅキのヅキは着キと云ふ事であつて、治者たる大臣高官および神官神職に限りて着用すべきものであると云ふ事を、決定されたのを『鼻に小豆生り』と曰ふのであります。鼻は人体に取つては呼吸の関門であつて、人民生息の主要点である。故に一国の安危を背負つて立てる国家の重臣を鼻と云ふのである。神諭にも、『この事成就致したら、艮の金神の鼻は、カラ天竺は愚、天まで鼻が届くぞよ』と予告されてあるのも、世人が尊重畏服するとの神意である。世俗が一つの功名手柄を顕はしたる時において、鼻が高うなると謂ふのも人の上に卓絶したる意義である。今日のやうに国家の重臣や、清浄なる神明に奉仕する神官等が、小豆を着用せずして、獣畜の毛皮を以て作れる、衣服を着用するなぞは、実に天則違反の行為であります。 『陰に麦生り』と云ふ事は、西洋人は麦を常食とすると云ふ意義であります。日本およびその他の東洋諸国は陽の位置にある国土であるから、陽性の食物たる米を常食とするのが、国土自然の道理である。西洋は陰の位置にある国土であるから陰性の食物たる麦を常食とするのが国土自然の道理である。故に西洋人は麦で作つたパンを食ひ、東洋人殊に日本人は米食をするのが天賦の本性である。しかるに、今日の日本人は上流に成るほど西洋崇拝者が多く現はれ、文明人らしき顔付をして、自慢でパンに牛酪なぞを附けて無味ものを美味さうに、平気で喰つて居るが、麦は日本では、牛馬の喰ふべき物と決定つて居るのである。故に日本人は米を喰ひ、陰所たる西洋に生れた人種は、麦を喰ふことに成るのが『陰所に麦生り』と云ふのであります。 『尻に大豆生りき』と云ふ事は、同じ日本国でも北海道などは、日本国の尻である。大豆は脂肪に富んだ植物であるから、寒い国の人間は、どうしても大豆類を食する必要がある。大豆を喰つて居れば、寒い国でも健康を害すると曰ふ如うな事はない。しかしこれは大豆ばかり喰ふと曰ふ意味では無い。米と混じたり或は炙つたり、粉末にして喰へば良いのである。北海道に後志と云ふ国名のあるのも尻の意味であります。筑後の国をミチノシリと訓むのも、国の端と云ふ意味である。要するに、この段の古事記御本文は、第一に各自の国土に応じたる食制を、神界より定め玉うたのであります。 『故、是に神産巣日御祖命、茲を取らしめて、種と成し賜ひき』高御産巣日御祖神は霊系の祖神であり、神産巣日御祖神は、物質界体系の祖神である。『茲を取らして』と云ふ事は、前記の御本文の御食制を、採用されてと云ふ事で、素盞嗚尊の食物に関する御定案を、直に御採用遊ばした事であります。『種と成し玉ひき』と云ふ事は、この食制を基として、天地改良の神策を樹立し玉うたと云ふ事であります。故に人間はこの天則に違反して、暴食する時は大切なる神の宮居たる身体を毀損するやうな事になつて、天寿を全うする事が出来ぬやうに成るのであるから、人間は日々の食物には、充分に注意を払ふべきものであります。
(大正九・一・一七 講演筆録 谷村真友)